TSR-CHRONICLE-The Genesis-1
テクニカルスポーツ創設 藤井璋美
2023.01.23 TSRクロニクル
1958(昭和33)年、二輪車業界を主体とした日本モーターサイクルスポーツ協会主導の「第3回浅間火山レース」は参加メーカー激減のため中止へと追い込まれた。全国のスポーツファンが悲嘆に暮れるなか、全国のアマチュアライダーたちを糾合した新たなモータースポーツ団体として全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)が発足、「当時芽生えつつあったモーターサイクルレースを選手自らの手で運営し、かつ継続して開催しようとする熱いレースファンの要望のもと」(太字部MCFAJ公式ウエブサイトより転載)、浅間高原自動車テストコースを借り受けて同年8月24日、折から来襲した台風による悪天候をついて第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースは開催された。
だが、同レースに参戦した藤井をはじめとするホンダスピードクラブのマシンに対し「市販していない工場レーサーがアマチュアレースに出場するのはおかしい」との参加者たちからの強い抗議を受けた主催者側は、急遽その新型OHC2気筒のベンリイ125始めとするマシンを駆るライダーたちだけのための125、250、350混走からなる第4レース「クラブマン模範レース」を設けて出場させる運びとなった。
「第3回浅間火山レース」は1959(昭和34)年8月22、23、24日の3日間にわたり「第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース」との共催という形をとり浅間高原自動車テストコースにおいて開催された。前年とは打って変わり好天に恵まれた各レースでは激闘が繰り広げられる。藤井は8月23日のメーカー対抗レースとなる「耐久ウルトラライト級125㏄レース」にホンダワークスチームから参戦。ワークス勢のマシンは、この年の6月マン島TT初挑戦し熟成を重ねたホンダの125㏄2気筒RC142を浅間用にモディファイしたもの。同レースにはライトクルーザーSLやトーハツLD、コレダRBなど強豪各社の最新型レーサーが目白押しであった。
だがマン島帰りの空冷DOHC2気筒125㏄RC142を駆る藤井は、14周131.014㎞にわたる未舗装路でのレースに激走を見せ1時間25分33秒というタイムでゴール。天才と評されたトップの北野元には23秒及ばず惜しくも3位とはなったが、そのライダーとしての実力は高く評価された。ちなみに、ホンダRC142の心臓部DOHC4バルブの駆動はシリンダー左側に設けたベベルギヤとバーチカルシャフト方式だった。
浅間でのレース開催は安全性の観点などからこの年が最後となる。だが、現在日本で当たり前のように開催されている2輪、4輪を含めたすべてのモータースポーツ競技の原点は、この浅間だといっても過言ではなかろう。
1962(昭和37)年、浅間から世界GPへと大活躍したホンダスピードクラブ(HSC)の社員ライダーらに続く後継者を養成するため本田技研工業が予算を組み、社外から有望な若者たちを選抜して一流ライダーへと育成させる機関「テクニカルスポーツ(以下TSと略)」を発足。このTSが後に藤井が鈴鹿で設立する会社名(現TSR)ともなる。最前列左が監督役の田中健二郎、右が総監督兼プレイングマネージャーの藤井。両者はともにオートレース出身であり講師として実地走行を含め選抜された選手たちを一人前になるよう指導した。
後列左端には浅間火山レース出場の猛者で講師役の折懸六三、その隣が弱冠17歳でこの年九州雁ノ巣で行われた第5回クラブマンレース50にて優勝を飾る大月信和、さらに右隣には大月のライバルで同レース125に優勝し、この年竣工した鈴鹿サーキットでのこけら落としとなった11月の第1回鈴鹿全日本ロードレース大会に出場するべく練習中、惜しくも事故死する渥美勝利らの若々しい顔も見える。